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グル/道(過去のBBS

 



ハートグリーンさん   投稿者:airsadhu   投稿日:Fri Jul 20 17:31:40 2001

見逃して、すみません。
気が向いたら、出かけます。


私見-地獄の解釈2   投稿者:airsadhu   投稿日:Fri Jul 20 17:24:28 2001

この模倣による「あたりまえ」の形成はやっかいです。新生児が、親の顔真似をすることはよく知られています。模倣で人になって行く。ところが、それはどうも機能としか考えられないくらいやっかいです。つまり、私達は最初からはめられている。罠に入るのは、もう慣れっこなのです。その方が確かに心地よい。
おぼろげな記憶があります。巨大な母のおっぱいです。夢中になって、しがみついた。時々、母が顔を差し出すのですが、そのたびおっかなびっくりしていたような気がします。母のおっぱいが世界の中心でした。そこには、視野狭窄によってしか、安定できないほどの不確定世界があったような気がします。








私見-地獄の解釈1   投稿者:airsadhu   投稿日:Fri Jul 20 17:23:28 2001

ナチスドイツは悲惨でした。あなたのおっしゃる「地獄」の象徴としては、結構、役に立つ物です。1970年代から、この勢力の台頭を研究する一派があらわれ、社会心理学という分野が確立されたようです。追試実験と確認を通して、山ほど検証され、眉唾としか思えない無駄研究の中で、安定度の高いデータと説得力にあふれるもののように見えます。(以下、もらったHilgard’s introduction to Psychology の受け売り。)主に「同調」「リスキーシフト」「電気刺激実験」「説得」「認知的不協和」「傍観者効果」が思考の材料になりそうです。
ど・ズサンに言えば、自分より多くの人間が、「黒」を「白」といってしまえば、「黒」に見えたとしても、「白」と言ってしまう。「白」と言ってしまえば、言ってしまったことで、「白」に思え、そう信じ込んでしまう。「白」と繰り返し言われることで、ますますそのように思えてしまう。本当かどうか考えている間、お互いの考える顔を見て、「あたりまえ」と受け取り、実際は新たな「あたりまえ」を作っていく。集団の合意形成過程で、その傾向は極度に拍車がかけられ、「集団幻想」=「新あたりまえ」が確定していく。「集団幻想」=「新あたりまえ」の実現に選択的「責任」がからんでくるということです。オーム事件にしろ、いやいや人間とは大した馬鹿です。(「あたりまえ」:友人言説パクリ)
ここで、いわれることは、つまり、他者の模倣による自己の安定というやつです。しかもそれをお互いにやってしまう。それは、自分が見たものよりも強力に人間どうしを縛り付けて行く。人はゼロ戦に乗れたわけですから、「幻想」=「あたりまえ」は肉体の安全を上回っているんでしょう。しかし、そこには、いつも選択があり、個人が意識(見たとおり)の放棄を選択した結果の集団スリップ事故と私は理解しています。


「前提」   投稿者:airsadhu   投稿日:Fri Jul 20 17:21:17 2001

私が信じるものは、授けられた意識です。私の経験の総体がそうさせました。何処に覚者がいようと、何処に地獄の亡者がいようと、私には伝わりそうにもない。言葉や目線、あらゆる信号で伝え合った気になっても、絶望的閉鎖系が此処にあります。ゆえに私の見る世界が私の真実であるのです。反省などした試しがありません。どのように相対性を言われたところで、「馬の耳に念仏」というやつです。その点、どうぞ、さっさとあきらめてやってください。


さらなる言いがかり   投稿者:airsadhu   投稿日:Fri Jul 20 17:20:12 2001

私の疑問を適当にかわす相手に、時間をつかって、なんでセリフを考え出さなきゃならんのか?合わせたことを言ってみても、納得した気になってくれそうにもないので、より率直、よりズサンに発言していきましょう。


やっぱり、休憩したいです。   投稿者:airsadhu   投稿日:Fri Jul 20 01:45:31 2001

どういっても、どうしようもないでしょ。

いったい、どうしろと・・?

明日かあさって、お返事書きます。

地獄なんてない。私には、そうでしかありません。


お休みなさ~~い。


ちょいとお邪魔   投稿者:ハートグリーン   投稿日:Fri Jul 20 00:03:29 2001

ひょいと来て
こんな言い方をしたらケンタウロスは怒ると思うけど
僕はケンタウロスの書く一行一行が美しいと思う
自分の身を削って書く一行やからね
誰もそんな書き方をしない 僕もね

でもこれはやっぱりケンタウロスのHP
徹底的にやりませんか?
ケンタウロスが徹底的にやるなら僕もそうします
身を削って・・・


戯論(わが破戒として)   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Thu Jul 19 09:50:35 2001

 『アウシュビッツは、覚者とはいえそうもない人たちによって解決され』あれは解決されたんですか?あれは終わっただけでしょう。いまからみればアメリカが勝ったことは歴史の必然じゃない。ナチスドイツが生き延びることだってありえた。いずれにしろころされた無辜の人々は帰ってこない。人体実験された人々がどう感じたかは判らない。脳みそ剥き出しで電極をさされたひとがどのように「解決」されたかわからない。

日本軍の人体実験部隊である石井中将以下の703部隊はアメリカとの取引により、つまりその実験データの提供により、官憲の追求を逃れたと言われている。すばらしい「解決」ですね。丸太と呼ばれて細菌を感染させられ、内臓を切り刻まれた人々もさぞや浮かばれるでしょう。

広島の黄色い猿どもの上に原爆が炸裂したのを喜んだ、カナダかどこかの首相も苦痛を乗り越えて幸せな人生を送ったかもしれない。

『時間をかけたとしても世の中に自他の死を受容してきた人々は大勢いる、いやほとんどがそうだと思います。死、不幸、老い、貧困がある人生とは果たして、「苦と恐怖に彩られ」「彷徨っている」ものなんでしょうか。老いて幸福な人、苦痛をすっかり忘れてしまった人、困難と果敢に闘っている人もいると思います』いるに決まってるでしょう。だがそれがどうした。死を受容したなんてどうしてわかるんですか。ほとんどのひとがそうだなんてどうしてわかるんですか?







戯論どこまでいっても   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Thu Jul 19 08:00:38 2001

『昔のことです。短い間の記憶で、あまり意味のないことかもしれません。その前、私も色々想像たくましくしていましたが、実際は想像をはるかに越えており、私にとって想像できそうもないものでした。命の充満?命の爆発?恐るべき無邪気?無関係?全て?偉大なる冗談?そこに私はいなかった?全体? 形容はかなり苦しい。命しかなかった。そこに皆がいた。生きるもの全てが何の差異もなく当然のようにそこにあった。至福。命、それしかなかったわけで、時間をかけて戻ってはじめて、慈悲、全体、命、関係等々について、私自身が考えるようになりました。ですから、関係自体、また、それを考えること自体、思考の一部だと思いました。』形容はかなり苦しいといいながらこれだけの言葉が出てくる。あなたの体験したもののリアリティはたしかなものだと思います。しかしこの程度ならわたしごときものでも体験してます。臨済禅でいうところの見性でしょう。しかし体験はどこまで行っても体験にすぎない。せいぜい記憶に残って、思考の材料になるにすぎない。忘れた方がいい。体験である以上覚醒にはなりえません。


  投稿者:ケンタウロス   投稿日:Thu Jul 19 07:33:30 2001

わたしが何処で覚者以外の人間を侮蔑したのですか?
それは言いがかりというものです。
ただわたしもkにいいがかりをつけましたが。「現代最大の救世主」に・・・この言葉はわたしの言葉ではありませんよ。でもあなたは挑発にのってくれた。「戯論」とは無意味な真理とは関係ないお喋りぐらいの意味でまさに迷妄の産物ぐらいの意味ですがね。それを続けましょう。


わたしが侮蔑するとすればわたし自身です。
わたしはわたし自身がとてつもないエゴイストだと知っています。
そのエゴイズムの最大の被害者が自分であることを知っています。
そんなこと知ったことではない?

 
エゴがなにかって?そんな大それた事をわたしに聞くのですか?
それができる実力も気力も在りません。
あなたを満足させるようなものは出せないと思います。
ただ自分という個別性が二元対立の現れであり、自分と自分以外、善と悪などの果てしない対立を生み、世界を実体化して苦しんでいるのが・・・粗雑すぎるね。

エゴが地獄とどうかかわるかって?エゴが地獄なんです。








3   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun Jul 15 23:50:50 2001

「わたしは狭いこころの持ち主なのか「全ての人間は尊敬に値する」というのは理解できません。」
 -愛も尊敬もさほど変わりないように思えます。失礼ながら、私はあなたの言葉に覚者以外の人間というものへの得体の知れない侮蔑を感じ、尊敬といいました。

「といわれるといったいこれは同じことば(覚醒)でまったくちがうことを言っているとしか思えません。」
 -申し訳ないですが、私の知ったことではないです。
 
「あらゆることと無関係というのはどうゆうことなんでしょうか?」
-昔のことです。短い間の記憶で、あまり意味のないことかもしれません。その前、私も色々想像たくましくしていましたが、実際は想像をはるかに越えており、私にとって想像できそうもないものでした。命の充満?命の爆発?恐るべき無邪気?無関係?全て?偉大なる冗談?そこに私はいなかった?全体? 形容はかなり苦しい。命しかなかった。そこに皆がいた。生きるもの全てが何の差異もなく当然のようにそこにあった。至福。命、それしかなかったわけで、時間をかけて戻ってはじめて、慈悲、全体、命、関係等々について、私自身が考えるようになりました。ですから、関係自体、また、それを考えること自体、思考の一部だと思いました。

ところで、少し休憩しませんか?
週一くらいが、なんとなく・・


2   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun Jul 15 23:49:43 2001

「崇高にたくましく生きたとしても、エゴがあるかぎり、地獄の口がどこで開くかわからないと思います。」
そのような地獄は、エゴとどのように関わっていると思いますか。詳細に説明してください。また、エゴとは何なのでしょう?

 「覚者が役に立つかどうかは、われわれの問題でしょう。覚者の問題じゃない。覚者は路傍の花だ。それは実用性は無いでしょう。ただそれを見て同じように咲きたいとおもうかどうか・・・。」
 「咲く」ことが、どう地獄の解決に結びつくのか教えてください。


1   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun Jul 15 23:47:17 2001

「アウシュビッツや広島のことを少しでも知っているなら、そんな有名なところでなくても恐ろしいことが起きたということを知っているなら、この世が天国ではないことは認めれるでしょう。」
-認めます。

「ただ、今現在ですら、中南米、アフリカ、チベット、北朝鮮でなにがおこっているか少しでも調べれば、ためいきが出てくる。倫理的要請としてこの世界が地獄的なものから脱却していないことは確かなようです。」 
 ためいきをつく。そうですね。でも、少なくてもやれることはあると思いますよ。アムネスティに加入すれば、無実の投獄者のためにはがきを出すことができる。毎日、メールが送れる。署名活動もできる。街の募金箱に小銭を入れることができる。個人的にHPも作れる。愛に突き動かされてか?気の毒・・気持ちの毒のためか?
本当の問題は、未知数の人間達が引き起こしてきた、気の遠くなるような出来事の内、いくつかの惨事ばかりを眺めて、せっかちにもためいきで終わらてしまう所にあるのではないでしょうか?悲哀・怒り・被害を感じ、優越したり、自他の無力を嘆いたり、急いだり、それらはいったい何なのか?そして、「複雑怪奇な私」と嘆きながら、一方で、何故そのままなのか?
私は、ほっといても彼ら自身の力で必ず解決できると思っています。実際、アウシュビッツは、覚者とはいえそうもない人たちによって解決され、今日まで伝えられました。



つきあいましょう2   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Sun Jul 15 10:16:52 2001

 誰かが言っていたんですけど、「私は尊敬なんかされたくない」、むしろ愛されたいだったかな。私もそう思います。私は大恩ある師すら尊敬してない。愛してるけど!

 覚者たらざる私たちが覚醒についてやその性質について直接言葉で定義したり議論するのは避けた方が無難でしょう。が、『覚醒は・・・・・それを伝えてきたはずの宗教ともそれほど縁がないことのように思えます。ですから、そのような意味では、救いにならない。あらゆることと無関係にある。それが「覚醒」の性質と思え、それを経験した人が増えたとして、何のかわり映えもないと私は思っています。』といわれるといったいこれは同じことば(覚醒)でまったくちがうことを言っているとしか思えません。あらゆることと無関係というのはどうゆうことなんでしょうか?


つきあいましょう1   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Sun Jul 15 09:49:13 2001

 アウシュビッツや広島のことを少しでも知っているなら、そんな有名なところでなくても恐ろしいことが起きたということを知っているなら、この世が天国ではないことは認めれるでしょう。たしかに人間はアウシュビッツのようなところでも、感動的な崇高さを見せることもある。ただ、今現在ですら、中南米、アフリカ、チベット、北朝鮮でなにがおこっているか少しでも調べれば、ためいきが出てくる。倫理的要請としてこの世界が地獄的なものから脱却していないことは確かなようです。と言ってもわたしたち、いや私のエゴという地獄もまた差し迫ったものといえないでしょうか。私が怒りに我を忘れるなら、小さな地獄アウシュビッツはいまここに起きうる。わたしが、見返りも無しに誰かのために自分を犠牲にできるなら天上的なことが起こりうる。問題にすべきなのは地獄の方でしょう。天国はほっときましょう。地獄はほっとくわけにはいかない。

 崇高にたくましく生きたとしても、エゴがあるかぎり、地獄の口がどこで開くかわからないと思います。

 覚者が役に立つかどうかは、われわれの問題でしょう。覚者の問題じゃない。覚者は路傍の花だ。それは実用性は無いでしょう。ただそれを見て同じように咲きたいとおもうかどうか・・・。
 

 わたしは狭いこころの持ち主なのか「全ての人間は尊敬に値する」というのは理解できません。誰かを尊敬したことがあるのかな?これは自分の師や覚者を含んでいます。殴りたい奴はいっぱいいるのにな・・・。情けないね。ただ「すべての生命には仏性がある」ことは信じています。


5   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun Jul 15 03:28:02 2001

私は、この世を地獄とは思いません。私が出会った人たちの中には、夫と死別して重度障害の子供を抱え、子供とのやりとりに些細な喜びを見出し懸命に生きる人、重病を患いながら、他者への深い思いやりを忘れないような人たちがたくさんいました。彼らは、崇高にたくましく生きていた。覚者が何の役に立つのか。全ての人間は尊敬に値する。その一方で、さしもの詐欺師も、資本主義のあわれな被害者に過ぎないかもしれない。また、そんな人の言葉に支えられ、善意の貢献をする人だっているでしょう。突然の悲劇が起こる時、その責任は、誰にあるのか。信じた人々?詐欺師?仕掛け人?覚者と言われた人々の古い言葉?それとも、わかっているのに、それをそのままにしてきた人?わからないことだらけですが、複雑でわかりきった筋道や予想外の偶然があるかもしれない。宗教の多くは、世界や人をごく簡単な言葉で説明してしまい、誠実な直視を怠らせてしまっている。そして、それは、あまりにも穿ったことのように思えるのです。その一方で、「覚醒」は、そのような、人々と偶然によって作られた一部の地獄と対立的にあるのではなく、それを伝えてきたはずの宗教ともそれほど縁がないことのように思えます。ですから、そのような意味では、救いにならない。あらゆることと無関係にある。それが「覚醒」の性質と思え、それを経験した人が増えたとして、何のかわり映えもないと私は思っています。




5   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun Jul 15 03:26:58 2001

「しかしそのような単純素朴な人がいったいどれほどいるのですか。私たちは複雑怪奇であるのだからこそ苦しむのであり、そのようなピュアさに憧れるのではないのですか? もし覚醒がありふれたものなら、それにこしたことは無いでしょう。たとえば1%の人間が覚醒しているなら世界は違ったものに成っている。しかし現実は0.00001%の覚者すら私たちの文明はそれを認識できない。」
-見える範囲での多少を嘆いたとして、意味があるようにはおもえません。また、誰かの期待に応え、伝えるためのものでもなさそうに思います。私には、あなたがご自身の複雑さを、あたかもそれしかないようにおっしゃっているだけのように映ります。

「せいぜい嘘つきの麻○や大○その他の阿呆ども、奴らが詐欺師であることぐらいしか見えない。だれもグルなど知らない。知らないものがいいか悪いか判るはず無い。いやいや日本人も、現代文明もどうでもいい、私はただ疑問なんだ、みんなそれでいいのか?カルマの風に吹かれて輪廻転生して、快と不快の地獄をさまようことが?その疑問のなかに喫緊ななにかがあるとするのは単なるイデオロギーなのでしょうか?」

-あなたは、この世を地獄といい、人を迷妄の中にいるという。その中で、極少数のものが覚醒し、しかし、迷妄の中にいる私達は、それを見分けることができないという。
どうしようもないっていうことをおっしゃりたいのでしょうか。しかし、期待を諦めていないようにも見えます。そうでなければ、悩みが続くはずもないでしょう。それに、世の中の全てを見てきたように語ってしまっている。しかし、私の少ない知識の範囲では、仏教もそんなことは言っていなかったような気がします。


4   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun Jul 15 03:25:52 2001

airsadhuさんはそんなレベルは超えておられるかもしれないけど、私や私の回りの人間は一切皆苦の現実から逃れられない。」
-私は普通以下のレベルですが、「一切皆苦の現実」はよくわかりません。死ぬほどの苦痛があったとしても、人は皆、苦を超えて楽しく生きれる生き物だと思います。本当のところは、苦を捨てようとしないのではないかとも思います。


「彼は逆説的なグルだ。グルであることを拒否しても、人々に説教たれることはやめなかった。私はその点のみにおいて彼が覚醒してるとは思えない。とてつもない生真面目さ人間としての真面目さがあっても、そこに限界を見てしまう。・・彼は人間であろうとして、人間のなかに封じ込められた。」
 -私はKに感謝しています。私の中の宗教灼熱地獄に水を差してくれましたから。Kがどう生きようと、Kの自由であり、言葉の蔓延を前に説教して生きることを選んだのだと思っています。誰かの期待に応える必要は誰にも無いでしょう。Kには隠れ扶養家族もいたはずで、学校運営もし、生活や役割もあったでしょう。
ですが、覚醒というものは、その人の人格や行動に関係し、影響するものなのでしょうか?



3   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun Jul 15 03:24:52 2001

「自分の死はもとより愛するものの死を畏れる。私たちは病を畏れ、不幸を畏れる。老いを畏れ、貧困を畏れる。苦と恐怖に彩られたサンサーラを未だに彷徨っているのか私たちの現実ではないのか?」
-時間をかけたとしても世の中に自他の死を受容してきた人々は大勢いる、いやほとんどがそうだと思います。死、不幸、老い、貧困がある人生とは果たして、「苦と恐怖に彩られ」「彷徨っている」ものなんでしょうか。老いて幸福な人、苦痛をすっかり忘れてしまった人、困難と果敢に闘っている人もいると思います。これはどう説明されるのでしょう。それも「迷妄」の中の、一時的凌ぎ、あがき、逃避になるのでしょうか。しかし、このようなことが、何故、全体的な説明を受けなければならないのでしょうか。



2   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun Jul 15 03:23:48 2001

「死は当たり前の現実なのに、私たちは死を死ぬほど畏れている。そして死はあたりまえなのに私たちの理解を超えたなにかだ。」
 - 全て理解しないと駄目なのでしょうか。また、理解は本当に可能なことでしょうか。また、その前に理解とは何でしょうか。物事の成り立ち・フロー・原因を見定めること?あるいは、要素に還元した上で組み立て直すこと?または、あきらめること?理解にも限りがあるのではないでしょうか。また、理解無しに受容しているものも確かにあります。そうでなければ、私達は生きていない。今日の夕焼けを理解するのに一生をかける人がいるかもしれない。したい人間がやりたいだけやる。しかし、それでさえも先行研究と全体の合意という制約の中にある。数式を作り、わかった気になった段階で止め、後からくる研究者に手渡すのが通例かもしれない。ですが、理解とはそんなに信用できる何かなのか。ただの満足ではないのか、支配されることへの抵抗に過ぎないのではないか、畏れも、生きるための機能ではないか。いろいろ疑問に思えます。


1   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun Jul 15 03:22:43 2001

ご存知と思いますが、私はごく普通の何処にでもいる人間であり、他の人にあてはまるもの全てが私にあてはまります。また、何度もいいますが、これは私の感想でしかありません。あまり敷衍しても意味がないし、話が多岐に渡ってしまうようなので、ケンタウロスさんの言葉に対し、率直に思いついたことを述べることにします。ところで、私は「輪廻」も「迷妄」も「地獄」も信じていません。

「しかしそれが誰にも「あたりまえ」だから簡単に手に入るようなものなのかということ。」
- それが永続的に手に入ったとして、生きてはいけない気がします。特にこの日本で。それを真に選ぶ人はかなりの確率で、至福の内に死ぬと思えます。そして、家族やその人と関わった人々は、その人の不可解な行動と死を痛み、苦しむでしょう。結局、それを拒絶する人がたくさんいて、表に出ないとしてもごく自然なことのように思われます。また、人間である限り、必ず訪れてしまう過ぎた恵みのような気もします。



BBS   投稿者:airsadhu   投稿日:Sat Jul 14 14:31:44 2001

フレームかわります。このBBSは残します。ぎろん2読んでおきます。


戯論2   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Sat Jul 14 03:01:49 2001

『仮に驚くほど、単純素朴な人がいるとしたら、きっと、空を見上げただけで、直ぐに起きてしまうような気がします。』しかしそのような単純素朴な人がいったいどれほどいるのですか。私たちは複雑怪奇であるのだからこそ苦しむのであり、そのようなピュアさに憧れるのではないのですか?

 もし覚醒がありふれたものなら、それにこしたことは無いでしょう。たとえば1%の人間が覚醒しているなら世界は違ったものに成っている。しかし現実は0.00001%の覚者すら私たちの文明はそれを認識できない。せいぜい嘘つきの麻○や大○その他の阿呆ども、奴らが詐欺師であることぐらいしか見えない。だれもグルなど知らない。知らないものがいいか悪いか判るはず無い。いやいや日本人も、現代文明もどうでもいい、私はただ疑問なんだ、みんなそれでいいのか?カルマの風に吹かれて輪廻転生して、快と不快の地獄をさまようことが?その疑問のなかに喫緊ななにかがあるとするのは単なるイデオロギーなのでしょうか?

 言いたいことが薄くなってくる。言いたいことなど無いかもしれない。単なる戯論か。残るのはairsadhさんに対する執着か?自戒しなければなりません。 


戯論1   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Sat Jul 14 02:59:57 2001

『単純、あたりまえのことでした。そんな美しいくらい「あたりまえ」のことが、少数の人間達のものであるはずがない。絶対に。』そのとうり、ただしその「あたりまえ」のものが私とあなたでおなじものを示しているのか、私にはわかりません。でもおなじとします。それは誰かのものではない。しかしそれが誰にも「あたりまえ」だから簡単に手に入るようなものなのかということ。死は当たり前の現実なのに、私たちは死を死ぬほど畏れている。そして死はあたりまえなのに私たちの理解を超えたなにかだ。

 自分の死はもとより愛するものの死を畏れる。私たちは病を畏れ、不幸を畏れる。老いを畏れ、貧困を畏れる。苦と恐怖に彩られたサンサーラを未だに彷徨っているのか私たちの現実ではないのか?airsadhuさんはそんなレベルは超えておられるかもしれないけど、私や私の回りの人間は一切皆苦の現実から逃れられない。
 インターネットやpcが私たちを死から解放したろうか。現代文明は便利さを約束するけど、便利さは幸福を約束しない。

 クリシュナムルティはグルシステムの最大の批判者のひとりだけど、彼は逆説的なグルだ。グルであることを拒否しても、人々に説教たれることはやめなかった。私はその点のみにおいて彼が覚醒してるとは思えない。とてつもない生真面目さ人間としての真面目さがあっても、そこに限界を見てしまう。彼は覚醒してるかもしれない、だけど私にとっていてもいなくてもどうでもいい。彼は人間であろうとして、人間のなかに封じ込められた。


伝達のエラー   投稿者:airsadhu   投稿日:Fri Jul 13 23:06:05 2001

狂気。悶絶。どこかのHPで私も似たようなことを言ったようです。私が知ったことが、誰かと同じかどうかは確かめようもなく、たいしたことでもないような気がします。私は私の経験の中で、私の感じたことを言うしかありません。それが誰かにとって、新たな障害になっても、結局、私の知ったことではありません。むせきに~~~ん!アハハ!
私が感じたことは、「たまげるほど単純。」ということでした。きっと、あきれ果てて、さんざん笑い転げてお腹の皮がネジレルことでしょう。偉大なるジョークって感じの単純極まることで、「あ~あ~、こっ酷く騙されちまった!!アハハ!」っていう。朝、太陽が昇ることに今さら気づいてしまったくらい、単純、あたりまえのことでした。そんな美しいくらい「あたりまえ」のことが、少数の人間達のものであるはずがない。絶対に。
断言できます!!自分の場合、最初に捨てたのは、後生大事にしてきたヒンズーでした。
K
の「自我の終焉」はクドイくらい親切だと思います。仮に驚くほど、単純素朴な人がいるとしたら、きっと、空を見上げただけで、直ぐに起きてしまうような気がします。
(^-^)


私の立場2   投稿者:airsadhu   投稿日:Thu Jul 12 02:55:16 2001

「覚醒」・・本当に、わからない言葉です。「迷妄」という対立項を設定して初めて成立する言葉であり、最も完全なトートロジーの1つと考えます。
「迷妄」という言葉は、私達に問題を作り出します。「あなたは目覚めていない。」と、すると、私達は途端に問題児になってしまう。あるいは、「覚醒」というものが希望になってしまう。その点で、これらの言葉は、悪質なセールス文句の類に見えてしまうわけです。
この2つの言葉を用い、自分の考えを述べるとするならば、人間というものの多くは、「迷妄」を、意識的または無意識的に選択し、あるいは選択させられ、「覚醒」を敢えて忘れてきたと考えています。
それは、一瞬、一瞬の微妙な選択であり、体内に蓄積された膨大な条件づけの賜物とも考えられます。
それは、盛大なパーティに向けての贅沢なドレスを選ぶために、とりつかれたように街を歩く人にも似ています。彼女に妥協はありません。しかしながら、ドレスは街に最初から用意されており、彼女のできることは最善のものを選択することでしかありません。やっと見つけたお似合いのドレスを纏い、鏡の中を見つめる時、不恰好な足は上手に隠され、裸は忘れ去られます。そして、その人は鏡に映る自分の姿を信じ始めます。彼女を買い物に駆り立てたのは、そのマジックでした。
もちろん、その人は生れ落ちた時、裸であり、最初の服は母が身につけさせました。
しかし、人は、所詮、裸なのだと思うのです。ここからどうやって逃げ出すのか?愛する母は逃げることを教えました。その人は逃げることしか知らなくなりました。しかし、もっともなことだとも思うのです。というのは、裸は凡庸で自然な機能の1つとも考えられるからです。それは、原初に授けられたものであり、多くは服を纏わされてしまうという機能です。


迷妄1   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Wed Jul 11 05:55:52 2001

 たぶん「覚醒」と「迷妄」という対立項があるとき私たちは迷妄の側に居るのでしょう。私自身は少ないながら何人かの自称、他称の覚者に会って来ています。それで気付いたことは、本物と思える人と居るとき、覚醒への憧れがなくなっているんです。どうでもいい。なんか教えてくれ、なんて全然思えない。あとでもっと突っ込んで聞けばよかったと思うんですけど。満足して「覚醒」なんてどうでもよくなる、というか単なる言葉に過ぎなくなる。いったいこれ以上なにをのぞむのか?
 私は誰もが覚醒を望むことなんてあり得ないと思えますし、誰もが仏陀になる必要はないと思います。ただ仏陀から見たら仏陀以外のものは存在しないかもしれない。誰が仏陀で誰がそうでないなどというのは迷妄の側からの判断にすぎないかもしれない。猫や虫が仏陀でないなどとは、迷妄の中にいる私たちには判らないことです。
 私がつらなる教えによれば、いってみれば「覚醒」以外無いんです。「覚醒」が全ての基盤であり、すべては清らかで完成してる。教えなんか無くてもそう思っていたしそれを確かめるために瞑想してきたようなものです。そこまでは師はいらなかった。ただ私はそれがリアリティとして飲み込めない。知的理解はできても私の血肉にならない。つまり引き裂かれている。これはたいへんな苦痛です。これは現実的苦痛であり、欺瞞的解決を許さない容赦ないものです。私は自分が狂うと思った。そうならなかったとすれば(それとも俺狂ってるのかな?)本物にであえたからだと信じています。
覚醒は私たちそのものです。私はそう信じています。しかしそれはけっして「機能」にはなり得ません。役に立たないでしょう。しかし迷妄の方は役に立つかもしれない・・・こいつのおかげで文明ができるかもしれない。でも迷妄の基盤は覚醒であり・・・つまり迷妄なんてないかもしれない。



私の立場   投稿者:airsadhu   投稿日:Wed Jul 11 00:48:23 2001

精神世界で使い古された言葉に 「覚醒」と「迷妄」 というものがあります。グルと名乗るものの言葉には、一般的に「私は、迷妄から覚醒に至らせる者である。」または、「私は、迷妄から離れている。」という含みを感じるものですが、この言葉を聞く者、つまり私達にとって、「迷妄」は生活にまつわる記憶の重積から思い当たるふしがあり、その一方で「覚醒」の方はなかなか想像がつかないもののように思えてしまうものです。敢えていうのなら、そのように聞かされてしまう。そして、その2つの言葉は、対立的意味性を帯び、話のコンテクストは、「覚醒」を「迷妄」の上位に位置付ける。「覚醒」は、目標、あるいは、憧れさえ抱かせる対象になってしまうかもしれません。しかし、これらは古典を含む、言葉の修辞的効果に過ぎないだろうと考えるわけです。
私は本当にそうなのかと問いたいのです。そして、そこまで強調される「覚醒」には確かに意味があるだろう。ならば、それは、修行などとはおよそ無関係と思える人々、または、知的機能に重度の障害を伴う者であっても、その意味性に包含されなくてはならないと考えるわけです。私は、「迷妄」が私達そのものであるなら、「覚醒」も私達そのものであると考えます。つまり、「覚醒」とは、「迷妄」と同様、私達の一部であり、凡庸な機能の1つだと思えるのです。「覚醒」が、一部の人間達を前提としたものならば、いったい、そこに、どんな価値や救いがあるのか?と、最初にグル達に問いつめたくなってしまうのです。


ごめんなさい。   投稿者:airsadhu   投稿日:Wed Jul 4 10:14:51 2001

本人から聞いた話だったんですが・・関係ないですね。


以下のレスは少し後で   投稿者:airsadhu   投稿日:Mon Jul 2 23:28:40 2001

ケンタウロスさん。ところで、ウェッブメールアドレス持っていらっしゃたら、教えてください。


補足の補足   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Mon Jul 2 05:04:43 2001

 導師の条件に関して超能力は何の関係も在りません。超能力や超自然現象は副産物にすぎず、それを売り物にする者は愚か者だけです。 


導師の条件補足   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Mon Jul 2 04:16:39 2001

 私の経験的では偽物かどうかの判断は、1か2をじっくり論理的に調べればだいたいわかります。それが間違っていなくても、具体性にかけて抽象的だったり、使い古された表現だったりすると怪しい。要するに頭のわるさを感じたらやめた方がいい。愛のない導師はいませんが、頭の悪い導師もありえません。


導師のじゅ   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Mon Jul 2 04:02:57 2001

 


導師の条件   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Mon Jul 2 03:55:30 2001

「つまり内側に自身の固い信仰を秘めた無邪気でとっつきやすい純情タイプに違いないと思ってるわけで。」ん・・・それはairsadhuさん本人がそうだからじゃないですか?それはともかく、私はグルとか導師というものをあまり複雑には考えません。月を指す指なのでしょう。指はきれいかもしれないし、汚いかもしれないし、色も形もちがう・・・でも月を指さないなら意味はない。ただ月以外にもすばらしいものがあるかもしれない。ちなみにドン・ファンが実在したなら凄いでしょうけど、その究極目標が私にはよく判らないし、なによりそれがすばらしいことかどうかもわからない・・・なにかすばらしいものを指し示しているのかもしれないでしょうけど。でも月以外にもすばらしいものはあるかもしれない。それは星かもしれないし、銀河かもしれない。重要なのはそれを指し続けることのようです。月という比喩にこだわるなら、晴れた夜、満月が空にあるならだれでも見ることが出来るでしょう、でも曇ったり、新月のとき、それを指さし続けるとなれば誰でもできる事じゃ無い。そう言う指に物神的な畏敬の念を持ってもおかしくないでしょう。

 導師の条件、ただしひとつの例。
1はっきりとした目標を掲げること(公にする必要はない)
2それがすばらしいものであることを示せること
3その目標に達する方法を持っていること
その方法を人それぞれに応用して使える、またはいくつかの方法を人に応じて使いこなす
4肉体を持ちながら、究極目標を自らの内に顕現できること
5弟子の内に究極目標を顕現できること


 これらは必要条件ではありません。でも十分条件にはなるでしょう。
1から3まで満たせばその人は導師になれます。4は覚者であると言う意味です。



 ところで月を指す指自体が月であることは十分考えられますね。

 英語版の私の名前はcentaurusまたはcentaurがいいと思います。


堕落の仮説3   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun Jul 1 17:41:56 2001

 尊敬されてるグルというものを見ると、日常的にONにたくさん入れてるタイプが多いようです。弟子なんかついてて、深いON状態になったグルを別な部屋に隠したりする文章をよく見かけますが。いきなり無執着だったり、狂人に見えたりするわけで、その時の話とかは、わけわかんなかったりするみたいです。何故、彼らが、ONにたくさん入れるかというと、だいたい、彼らの中では、神的状態。つまり、神とのコミュニケーションになってるわけで、OFF状態で、「ON=神」っていう絶対価値が付随しているわけだから、それに並ぶ選択肢なんかないわけですよ。そのため、ONへの再入場が簡単に起こる感じがするのです。私は、そんな価値持てそうにないですが、もし、私にグルが見つかるとしたら、そんな絶対価値をOFFの私に自然に入れてくれる人。つまり内側に自身の固い信仰を秘めた無邪気でとっつきやすい純情タイプに違いないと思ってるわけで。
だから、今のところ、「やっぱ、やっぱ、マハラジ最高!」です。


堕落の仮説2   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun Jul 1 17:39:41 2001

さて、幸運か偶然かONに行ったとして、OFFに戻らざるを得なくなる。私達には、日常の仕事や責任があって、その人のOFFしか知らない周囲の人。無理解な家族やら仕事仲間などと上手くヤラネバならないし、結果、急激にOFFに戻ると思えるわけです。
元に戻れば、まさしく、不安定ながらの元通りで、きっと、お腹もすくし、人恋しくもなるでしょう。また、ON状態を誇りに思う文化にあるなら、複雑な優越感を抱えることになるようです。まさに、ここからが堕落の始まりだと思えるわけで、単純に、金やら名声やらオネーチャンにモテモテ♪とかへの欲求が起こってくるかもしれない。また、学問好きや好奇心のあるタイプなら、誰もやったことのないことをやってみたり、さらなる覚醒への新たな実験などが始まってしまうかもしれない。それに誰でも、そんな体験をこっそり話したくなるものだと思うわけです。しかし、こうなると、覚醒は、精神の道楽か、別な欲求を満たすための手段に落とされてしまう。また、これにからんだ執着は、結局、OFF活動を強化するわけで、そのため、今度はなかなかONに戻れないことにもなりそうです。
インドグルの弟子との際限の無いおしゃべり(インド人のおしゃべりは凄いですが)は、ここいらへんに関係してるような気がします。説教しながら、戻れないことを気にしてる人も中にはいるんではないかと思うわけで・・。ベラベラ・グルなんか見かけると、何考えてんだかっていう、感じもします。



堕落の仮説1   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun Jul 1 17:38:34 2001

ラムダスは、一度、覚醒しても、その後、堕落してしまう人間の存在を嘆いていたと思うのですが、私の研究の範囲において、覚醒後の堕落についての仮説をたてたいと思います。
言っておきますが、正しいかどうか、責任は持てません。あくまでも仮説ですから。

自我の活動が停滞する瞬間というものがいつもあるようです。何らかの修行をしている人なら誰でも、そのような精神の変容を敏感に感じ取り、自我に生じたわずかの間隙を見つけると、修行の途上で獲得した一撃で、押し広げることができるようです。これを仮にON状態とすると、通常の意識状態(=OFF)とは、全く異質なものとなるようです。修行の途中、ハイになったり、なんらかの現象を体験したりする場合は、どちらかというと、わずかに停滞した硬いOFFでしかないような気がします。そのくらい、ON状態は違うようです。個人性が失われてしまうようですから。ある意味、人間でなくなるわけで。ここいらへんは、KK’s Notebookにも詳細が書かれているようで、彼の場合、頻繁にONOFFを行ったりきたりしていたようですが。


guru2   投稿者:airsadhu   投稿日:Sat Jun 30 18:01:39 2001

私のように疑いの壷にはまってしまった人なら、労を気にとめず、笑って疑いを打破してくれる人がいれば、即座に信仰が生じてしまう。それは素晴らしいことであるかもしれないし、また、それだけのものとも思うのです。稀な精神を呈する人間がいたとして、また、よくある精神を持つ人が、雄弁に稀な精神を語ったとして、それと、どう自分が関わるのか、今のところ、皆目検討がつかず、出会ったとしても何の変わりばえもないような気もします。でもきっと、とっても楽しいでしょうが。


guru1   投稿者:airsadhu   投稿日:Sat Jun 30 18:00:37 2001

ある本で、とあるグルについて、心は常に天空のように澄み渡っていたということが書かれていました。その人はそれをどうやって知ったのか。ということや、天空のように見えなければ、その人は、彼をグルとして受け入れなかったのかなどという問いが浮かびます。また、天空のような人がいたとして、私達にその人の意味するものがどのように伝わるのかということさえあります。私達は、強力な自己の夢想の中におり、他者をそのまま受け取ることは、かなり難しいわけで、執筆などに始まる派手な宣伝活動でやっと、鈍い注意が引き込まれることになりますが、別の夢を提供されるだけのような場合がほとんどのように見えます。その一方で、Kの注意の主張など、夢を前提とするものは、私達自身の注意の喚起を問うわけですが、その際、Kもサポーターであるという意味で合意したとしても、同じ意味をなしていないような気がします。例えば、月を指差すものがおり、グル信仰は、指差すものを月そのものと見ることであって、グルとは、信じるか、信じないか、好きか嫌いかという、他者への単純な感情やイメージに左右され、結局は受け手があるイメージを選び、賛美すると思えるわけで。つまり、グルは選び手の主観そのものと考えるわけです。


騙されの効用   投稿者:airsadhu   投稿日:Sat Jun 30 13:44:08 2001

前に、カルカッタのマザーテレサの所にボランティアに通ったことがあります。インドの友達は、何があっても不思議ではない土地だと何度も止めましたが、準備もせずにカルカッタ行きの列車に乗ると、隣に座ったインテリ・ギャル(オーロビンドロの信者)が、カルカッタのよい宿まで送ってくれることになりました。宿につくと、前の部屋の人がニュージーランドからきたマザーのおばあちゃんボランティアで、次の日から、一緒に行くことになりました。インドに行けば、万事その調子で、なんとかなるものです。活動は朝のミサから始まるのですが、ホテルから出るたび、彼女は祈り、私の手を握り締め、真剣に「大丈夫よ!!」と念を押します。カルカッタはインドの排水溝ともいえ、確かにスゲー所だったんですが、私は、「インドが私を傷つけるわけがない。」と軽く考えており、1人で危険区域にもヘラヘラと行き、10人のヤクザに囲まれても、大声出して戦いながら、夜中の1~2時に遊びに出かける始末でした。ホテルに帰ってくると、前の部屋から「なんて勇敢なの日本の子は!!」という雄たけびが、何度も聞こえてきて、本当に笑った。まさに主観の違いでした。私はインドを信じ(=インドに騙され)、彼女は神を信じていた(=神に騙されていた)。どっちもどっちですが、信仰は恐怖を取り除く。今考えると、まさに無敵の神がかりだった。


おお!   投稿者:airsadhu   投稿日:Wed Jun 27 22:21:04 2001

いらっしゃーい!!不可欠ですかぁ。羨ましいともいえる。
ん~~。正直言って、私だって、グルは欲しい。
一度でいいから、驚くような人間に直接会って感動してみたいです。そんな人間がいれば、ヒマラヤの奥地だろうが、内戦地だろうが、尋ねていくくらいの根性は、今だに持っています。しかし、やはり懐疑的なのです。今までの経験の総体がそうさせたのかもしれません。ですが、見出したものもあります。それは、自分という資源です。これも、また、いい加減なものかもしれませんが・・。
あ~~確かに、芯から、騙してくれるグルが欲しい。これぞ、まさしく彼らの役目ってもんで、ラムダスが羨ましい。ある種のグルらしきものはいるんでしょうが、完全排除してますね。アハハ!
 ところで、ラジニーシは、大学院修士卒業~渡米の間に、ジドゥではない、クリシュナムルティという保守的なグルに弟子入りしていたということをインドのお爺さんが話していましたが。あまり、好きなタイプ(嫌味なくらいの礼賛かなぁ?なんだったけ?)ではなかったので、詳しいことは知りませんが・・。でも、ハートグリーンさんのHPの人たち見てると、どう見ても、スイートなので少し困ってます。何処に行ってもOSHOのファンは多い。知らないし、読む気もないので、今もってやりにくいです。


不可欠   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Wed Jun 27 03:31:11 2001

 精神の道にグル=師=先達は必要不可欠なものである。と私は認識しています。これに論理的根拠はありません。私の直感であり、私が吸収した教えの総体がそうだと言っている、としか言いようがありません。覚醒を得るのに特別な師無しに達成したといえる人もいます。まあ化け物みたいなもんですけど・・・います。でもまったく自分ひとりで、誰のサポートもなしに達することはまずありえません。和尚ラジニーシを私は覚者と認めますが、彼には特別なグルはいません。でもある種のヨギが彼に「ついて」いました。ラジニーシのような人は例外中の例外であり・・・たぶん前世においてほぼ完成しており、生まれたときからほぼ完成品だったのでしょう。クリシュナムルテイはどうだとか、仏陀はどうだとかありますが、師なくして覚醒はないようです。・・・でも例外的化け物はまだ何人かいるなあ・・・。まあ私には関係ないですけど。ただ嘘つきや病人は除外しておきますよ。麻○くんや大○くんなどの。


懺悔など   投稿者:airsadhu   投稿日:Mon May 21 14:36:17 2001

真剣に問いかけられると、照れてしまって・・ふふざけただけです。私自身、批判大魔王なので、どこのHPでも仮面を被って発言しているわけで、書くたび、罪悪感があります。とくにご自分をまっすぐと表出される方に。また、まずいことなどは、言わなくても、核心は伝わるものとも思っています。他者を想定して発言すればいいのですよ。失言王なら、HP作る場合は注意がいるんでは・・。問題発言された場合は、削除とか。でも、国内版なら、名前を考えれば、-あ○は○とか-それで、ほとんどだいじょぶでしょう?また、グルについて、私は、同格と思っています。グルが上のものである限り、産業は続く。受け手は拒否しなければならないと思っています。礼儀は尽くしたとしても。ラムダスやマハラジのような純粋で生真面目な方は、そうそう居ないものです。サンスカーラは、潜在的傾向とかいう意味でしたっけ?(心象の意味でした。スマソ)ケンタウロスさん!いつでも、いらしてください。大切なネタはいいです・・。そちらのHPで私も失言王!!


なにを懺悔するの?   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Mon May 21 07:34:35 2001

 airsadhuさんに乗せられて、あることないこと言いそうで困りますね。ほんとは自分のHPで展開しようと思っていた問題をここでやってしまいそうです。それは宗教批判とでも言うものです。

 ところでなにを「すいません」なんていっているのですか。


 「その一方で、探求といわれるものに没入できる方の人間は、自覚的で、その人にとっては、間違って当たり前であるし、そこに価値を見出せる存在です。言い換えれば、探求者は、知る知らずに関わらず、自分の道を自分で歩いているわけであって、もともと、グルを含む他者がどうしようが関係ないわけです。その点、すでに守られている。」あはは・・・探求する人間て無敵みたいやなあ。グルを含む他者がどうしようが関係なかったら・・・それはグルと同格ってことになりませんか・・・それはグルの側からはそうかもしれないけど・・・探求者のほうから見えないんじゃないのかな。これはあまりに微妙でややこしいことなので、これ以上つっこみませんけど・・・

 サンスカーラってどういう意味ですか。

 失礼ながらairsadhuさんの責任でやっておられるHPなのでご自身の思うとうりにやるしか無いでしょう。ところで「やっちゃう」とはなにを想定しておられますか。私の場合はまだ怖いもの知らずで、取り返しの付かないことをしかねないかもしれないと思っています。失言王だと言われています。


 あんまり私みたいなのが訳の分からないことをいって、善男善女がこのbbsに来にくくなったら困ります。たくさん人がくればいいですね。
 
このHPはVISION QUEST BBSで発見しました。

「探求者の門」というHPを作りかけています。

 

http://www.digital-gate.net/~kagami/


懺悔2 続き   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun May 20 03:56:11 2001

私3)確かに!それでもなお、探求者ばかりがグルなるものと関わるものではないと思っているわけです。今のグル商法は、仁義なき大産業で、探求を表裏ともどもに露出させているようなタイプを避け、そうでない人-ある種、孤立を避け、待遇してくれる集団に帰属することで心理的安定を求めている人たちなどなど-をターゲットにしていると思っています。(その人たちが、その時点で、求めていないとは言い切れないですが・・。)その場合、事が起こった時の悩みは、壮絶の一言でしょう。現実方向の自覚が少なかったわけですから。その一方で、探求といわれるものに没入できる方の人間は、自覚的で、その人にとっては、間違って当たり前であるし、そこに価値を見出せる存在です。言い換えれば、探求者は、知る知らずに関わらず、自分の道を自分で歩いているわけであって、もともと、グルを含む他者がどうしようが関係ないわけです。その点、すでに守られている。世間でいう大問題も、大笑いで終われるわけです。(もちろん殺人は問題ですよ~~。^〇^)このHP、つまりは、ターゲットを絞っていないんです。実際、BBSに来訪してくれる人のサンスカーラみたいなものを最初から制約的に見なして、紋切型になっていく会話を持続しても、私自身がつまらないし、不安を抱えている人の役に立てないのも嫌だし。たくさんの人に来て欲しいし。カルト問題は、実際、私も頭に来ている現実的な問題で、その点、BBS・メール回答を含む多くの人たちが立ち寄ってくれそうって感じもあります。考えた上での戦略でした。すみません。

 ケ4)ところで全く誤謬のない、社会、文化、文明、宗教、を人類は持ったことがあるか?または持てるか?そしてこんな質問に意味はあるか?私自身のHPを作りかけているのでこういったことはそこで掘り下げて見ましょう。

(^-^)楽しみにしています。よろしければ、リンクしませんか?
また、このHPは、どうやって、みつけたのですか?サーバーに問題があって、登録できず困っていたのですが・・。


懺悔2   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun May 20 03:55:40 2001


ケ3) 
 人は間違って当たり前なんだということ・・
 勿論それが容易であり簡単であるなんていえない。誰にも勧められるやり方でもない。

 人は間違って当たり前なんです。
いや人である以上間違わないことこそとんでもない地獄への道なんだということ。そしてひとである以上「覚者」を含めて間違うんだということ。そして間違いを「認める」ところから真の知性がめばえるんだということ。真の探求がそこから始まりうる・・・。



懺悔1   投稿者:airsadhu   投稿日:Sun May 20 03:53:16 2001

ご返答、遅れて、申し訳ありません。ケンタウロスさんのご質問に11つお答えつつという感じで行きたいと思います。

ケ1)なぜこのBBSの表題が「グルとはなんだったのか。」「道とはなんだったのか」というふうに過去形なのですか?なにか意図がおありですか?少なくとも私にとっては「グルとは何であるか」というのはアクチュアルな現在形の問題です。勿論「道」も・・・。

私1)私自身、インドを歩いて、グルなるものに会ってきた実感がそう言わせてしまった感じです。他者に対する意図というよりも、自分の中で過去形に近いものがあったので、そのほうが自然な気がしてしまったわけです。現在形の実感がなかったので・・。明日、現在形の方も入れてみます。

ケ2)実のところ「とんでもないグルに引っかかった人」というのは興味があります。ただそれがどういうことか個々のケースを見ないと私にはものが言いにくいのです。(だからこそこのHPに期待しているところでもあるのですけど)たとえば、おなじ元オウム信者でも個人個人では事情が随分ちがうはずです。一般的な治癒(何から?)があったとしてもやり方は微妙に違うでしょう。

私2)おおぴらにやってしまった場合、どうなるか考えてしまいます。HP読んで、直接的に傷ついてしまう人がいたら、しゃれにならないわけですし、また、各所での悪集団の組織性や攻略法は、想像以上のもので、問題が起こった場合のことを考えているんです。方々にメールして、コメントをもらおうとしているこのHPの性質上(返答を期待できるインドで正統派といわれる集団は、グル問題に、内心、腸煮えくり返っているものの、非暴力という美名のもと、現実的な対立や噂を避けたがっていると思っているわけで・・。私自身が気を抜いてしまって、やっちゃった場合、ご迷惑をかけますからね。)グル系の個人名を挙げることは、避けたいが、避けては通れないので、その都度、気を使いながら話すムード(隠蔽ムード)を醸し出しつつ、イニシャルでならOKという感じにしようかなと思っています。かなりいやらしいやり方ですが・・ケンタウロスさんのご意見も是非、お伺いしたい。


まちがい   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Sat May 19 07:43:24 2001

 airsadhuさんに質問があります。なぜこのBBSの表題が「グルとはなんだったのか。」「道とはなんだったのか」というふうに過去形なのですか?なにか意図がおありですか?少なくとも私にとっては「グルとは何であるか」というのはアクチュアルな現在形の問題です。勿論「道」も・・・。

 実のところ「とんでもないグルに引っかかった人」というのは興味があります。ただそれがどういうことか個々のケースを見ないと私にはものが言いにくいのです。(だからこそこのHPに期待しているところでもあるのですけど)たとえば、おなじ元オ●●信者でも個人個人では事情が随分ちがうはずです。一般的な治癒(何から?)があったとしてもやり方は微妙に違うでしょう。
 。
 反カルト運動があります。その価値と実用性を認めますが、反カルト運動も一つの通俗イデオロギーです。カルトイデオロギーから別のイデオロギーに移ることを世間では社会復帰したと喜ぶかもしれませんが、私はべつのやり方があるのではないかと思っています。私はこう書きました「・・別に偽物でも良いんじゃないのかな?・・・たかが人生台無しにするだけだし・・・本当に「そのこと」を理解できるなら人生を破壊しなくて済むんじゃないかな・」このところを説明します。
 
 人は間違って当たり前なんだということ
 そして人生が台無しになったと「思いこんでも」、なにをどうまちがえたか、何でこうなったかを「見れば」何かが変わるはずなんだということ・・・それは一つのイデオロギーから別のイデオロギーに移るということじゃない。まさに「探求」なのです。
 勿論それが容易であり簡単であるなんていえない。誰にも勧められるやり方でもない。

 人は間違って当たり前なんです。
いや人である以上間違わないことこそとんでもない地獄への道なんだということ。そしてひとである以上「覚者」を含めて間違うんだということ。そして間違いを「認める」ところから真の知性がめばえるんだということ。真の探求がそこから始まりうる・・・。

 ところで全く誤謬のない、社会、文化、文明、宗教、を人類は持ったことがあるか?または持てるか?そしてこんな質問に意味はあるか?

 私自身のHPを作りかけているのでこういったことはそこで掘り下げて見ましょう。


ケンタウロスさんへ   投稿者:airsadhu   投稿日:Fri May 11 19:15:11 2001

さっそく、ご返事ありがとうございます。ひどく嬉しいです。今後、この掲示板は、新しいものに変える予定ですが、ケンタウロスさんのコメントもそのまま掲載させていただきたいと思います・・。
「正しいグルの見分け方」について、私が何故、メールなどを出したかというと、出版に携わったり、インドでは、正統と考えられる人たちが、どのような規準で、ある個人をグルとして、唱導しているかを知りたかったというのがあります。というのは、私自身、真実のグルのことなど、全くわかりませんが、グルとは、グルと自認する個人と、その人はグルであったと容認する人々の間の対人認知システムによって、成り立つと考えているからです。ですが、そうなると、今という時代は、特に、情報のコントロールに成功した人間がグルになるということを意味しています。期待と失望、そして、絶望という罠にはまって、苦しみ抜いている人々を現実に知っており、私は、ケンタウロスさんと違い、「たかだか人生が駄目になるだけ」とは考えていません。「正しいグルの見分け方」に関して、問題にしたいことの中心は、情報戦略の方で、それに対抗し、画一的ではない、多様なグル観を考えいと思ったわけです。ダルシャニさんによれば、グルとはヒンズー的人格者ですが、ラムダスさんは、個々人の内部の選択に委ねているようです。
ケンタウロスさんの「・・問題はグルの正当性じゃない・・・ほんとうに自分を知ろうとする真摯さではないのか。探求とはそのこと以外なにがあるのか」・「私は夢想する。麻○や池○のような連中が支配する世界を・・・そういう世界でも探求は試みられるでしょう。まさに命懸けの探求が・・・」
について、私としては、共感を感じます。いわゆる偽グルも、個人にとって見れば、人格者的グルより、多いに役立つマハ・グルでしょう。ですが、語られてはいない。このHPの目的は語ることです。私のグル観、実践への意志については後にまとめ、さらに収集を重ねたいと考えています。また、実践、実践への意志とはいったい何だったのかをツッコンでいきたいな・・と考えます。




グルの見分け方2   投稿者:ケンタウロス   投稿日:Fri May 11 06:44:46 2001

仏性とか覚醒にすら価値を見つけない立場すらあります。そうゆう視点からいえば、グルなど迷妄そのものでしょう。文化大革命のときに寺院を破壊し、僧侶を虐殺する立場もその一つです。そうゆう暴力性すらわたしたちの中にある。
 
 私の立場を明らかにしておきましょう。この世にグルは腐るほどいる。覚者もいれば、糞野郎もいる、誠実な人もいれば詐欺師もいる、若いのもいれば年寄りもいる、有名人もいれば無名の人もいる、男もいれば女もいる、黒人もいれば白人もいるらしい・・・当然本物もいれば偽物もいる。あたりまえのことです。・・・別に偽物でも良いんじゃないのかな?・・・たかが人生台無しにするだけだし・・・本当に「そのこと」を理解できるなら人生を破壊しなくて済むんじゃないかな・・・問題はグルの正当性じゃない・・・ほんとうに自分を知ろうとする真摯さではないのか。探求とはそのこと以外なにがあるのか・・・麻○は死刑になるまで現実逃避するでしょう。死んでからも現実逃避するんだろうな・・・池○○○は死ぬまで人を支配し続けるのでしょう。死んでからも?・・・奴らは勿論探求者ではないし、探求者の敵でしょう。でもほんとにそうか?私は夢想する。麻○や池○のような連中が支配する世界を・・・そういう世界でも探求は試みられるでしょう。まさに命懸けの探求が・・・今の北朝○でそう言う魂の挑戦はあるのでしょうか。しかし人が「絶対の精神の自由」(そんな物があるかなどとはいわないでください)をどこで求めるか判らないでしょう。ああゆう連中ですら覚醒の助けになり得るかもしれない。話しがだいぶずれてきてますけど・・・。カスタネダのいう小暴君が探求者以外には意味がないように、私の物言いは探求者以外には意味ないことです。

 グルが偽物かどうかというのはグルをもつ気もない人間には本質的意味を持たない知的遊戯にすぎないでしょう。しかもそれは論理的には判断できません。偽物に引っかかるのがいやならグルをもたなきゃいいし、グルをもつ以上偽物である可能性は常にある。自分のグルだけは違うなどというのは論理的根拠をもたないのです。偽グルこそが本物と偽物の区別の仕方を親切に教える人かもしれない。ラムダスさんはなんだか意味のないことを言っているけど、真剣さは伝わりますね・・・。もう一方のは、もっともらしいことを言ってる分怪しい・・・というか笑えますね。
 
 



Hindu No Heroes

 

個人名の記述については、管理者が修正を施しました。

 

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